お知らせ

レポート:第101回東京大学HMCオープンセミナー「『顔』は何を語るのか:文学の読み方と『顔』」

カテゴリ: 「顔」は何を語るのか──過去から未来へ , 協働研究

2023年12月1日に、「オープンセミナー『顔』は何を語るのか:文学の読み方と『顔』」がオンラインにて開催された。このセミナーの親プロジェクトである「『顔』は何を語るのか──過去から未来へ」に学外研究協力者として参加している立場、そして「顔」を軸に文化資源学・人文情報学の研究を行ってきた立場から、当日の発表に見る研究関心についてまとめてみる。

※なお、著者自身のプロジェクト内での研究については第87回オープンセミナーを参照いただきたい。

講演内容はセミナー紹介ページに掲載されている通り、「明治小説の口絵・挿絵と顔の問題」(出口智之)、「『美人』の『基準』と和歌文化――大正期の場合」(永井久美子)である。それぞれの発表の内容は多岐にわたり、近代日本の大衆文化に関する知識面の整理にも、新たな創造の可能性にも触れるものであった。著者自身の研究関心に引き付けると、どちらにもある種の「美しい顔貌の重要性」が通奏低音として流れている点が、非常に興味深いものであった。

出口の講演においては重要な(そしておそらく「美人」である)ヒロインの顔貌が、挿絵としては敢えて「見えない」構図で描かれていることからの、文章と挿絵の関係性、さらにそれが読者の「読み」につながることが明らかにされた。一方の永井の講演において、大正期に有名な「美人」の写真と共に、「美人」が持つ社会的な属性について、伝統的な文化的価値との連続性を含めて紹介された。

現実の美人と文学上の美人の接点は、きわめて抽象度の高い段階でのものであると捉えられるかもしれないが、著者にとって両者の講演は「美人」の「画像としての描写」とそのコンテクストの関係について考えを巡らせる契機となった。つまり、「その画像上の人物が『美人』であるか否かはいかにして決まるのか」という問いである。

言うまでもなく、「美人」がどのような外形的特徴を持っているかは、時代の変化や社会の状況によって大きく変わる。現実世界で「美人」とされている顔貌と、画像化されたときの「美人」の表現にすら差があるということすらあり得るのだ。江戸末から明治中頃にかけて活躍した高橋由一が描いた「美人(花魁)」という写実的な肖像画がある。モデルとなった吉原の小稲がこの作品を見た際に、それまで描かれてきた「美人」とかけ離れた描写に対して怒ったという由一の弟子の回想がのこされている。

著者がこれまで行ってきた「顔貌」のコレクションでは、絵巻物から抽出された顔貌が「美人」であるか否かは、「どの様に描かれているか」以上に「誰が描かれているか」に基づいて判断してきた。「この顔は、美しいとされている人物の顔を描いているから、美しいのである」というトートロジカルな判断なのだが、近世以前の美術作品においては、一つの基本的な態度でもある。実在の人物を描いた場合であっても、先の由一の例のごとくである。もちろんその人物の特徴を端的に伝える肖像もあるが、その点については後述する。この著者の常識に対して、近代的美人の「描かれない顔」と「肖像写真」は、新しい観点を与えてくれた。

「『顔』は何を語るのか──過去から未来へ」では、これまで3回セミナーが行われてきた。いずれも中世から現代までの様々な「顔」をそれぞれの研究分野から語ることで、別分野の研究を促進する大きなヒントとなりうる刺激的なもので、今回の公演もまた、近世と近代の連続性といった手あかのついた表現にとどまらない、「顔」を巡るコンテクストの相互作用を生むものであった。

なお、先ほど少しだけ触れた「肖像」の位置づけについて、本プロジェクトの中での分野横断的な共同研究が進んでおり、その一部は昨年9月20日付の「お知らせ」にも掲載されている。プロジェクトに参加する研究者として、講演を軸としても、共同研究を軸としても「顔」に関する知見が深まるよう今後も務めていきたい。

(鈴木親彦 群馬県立女子大学文学部准教授)

協働研究:「顔」は何を語るのか──過去から未来へ