オープンセミナー

古典教育をめぐる議論:19世紀の日米における事例から考える

  • 日時:3月26日(金)17:30 - 19:30
  • 報告者:
    水野博太(東京大学ヒューマニティーズセンター特任助教)
    原圭寛(湘南工科大学工学部講師)

近年,古典教育が大学などの高等教育における人文学の意義付けと関連して議論の対象となっている。しかし同様の議論は,近年になって日本で初めて登場した......というものではなく,近代的な高等教育が形作られ始めた当初から,洋の東西を問わず繰り返されてきた議論でもある。

このセミナーでは,19世紀の日本およびアメリカにおいて,古典教育をめぐってどのような議論が行われてきたのか,二人の報告者の専門に基づきながら検討してみたい。この時代は,日本では明治維新を経て日本初の近代的総合大学である東京大学が設立され,近代的高等教育が形作られていった。アメリカも同時期に,前近代から続くカレッジがその数を増やすと同時に,ドイツ的な研究理念を有する大学院が登場するなど,高等教育を巡る様々な変化に直面した。これらの時代に両国で行われていた古典教育をめぐる議論を比較検討することは,現代における様々な課題を考える上でも有用であろう。

前半部の発表(水野)では「漢学」に着目する。そのルーツからして西洋の学問を吸収・教育・研究する機関として作られた東京(帝国)大学において,江戸時代までの伝統的学術であった「漢学」はどのように取り扱われ,かつ生き延びたのか。また明治の当時にあって既に「古臭い」「不要」という批判をたびたび受けていた漢学は,そのような批判にどう対処しようとしていたのかを検討する。

後半部の発表(原)では,19世紀アメリカの高等教育における(西洋)古典教育の議論について検討する。アメリカの研究大学の学士課程は今なお「リベラル・エデュケイション」をその中心に据えているが,その内実は時代と共に徐々に変化してきた。特に「古典」及び「古典語」の扱いについては,19世紀前半頃から議論の対象となり始め,今なお論争が続いている。これについて本発表では,1) 17-19世紀のアメリカの高等教育の変遷を簡単にまとめたうえで,2) その中で古典語の学習が果たしてきた不変の役割(=弁論という実践的技芸との関わり)を説明し,3) 19世紀アメリカの高等教育及び学問の多様化の中でその役割及び重要性がどう変化したかについて,原典か翻訳か,必修か選択か,という当時の論争を基に考察する。